なんでもない

恋人がいる人がよその人のことを好きになって、そのお相手も気持ちを受け入れたら浮気ということになりますよね?その浮気と、結婚している人の浮気を比較すると、とかく後者の方が声高に批判されますけれど、それって一体どういうことなんでしょうか?自分の恋人や配偶者の浮気について憤るのも悲しむのも失望するのも自由だと思うし、親しい人の身がそういう事態の最中にあればもちろんその人の気持ちに寄り添いたいし現状を打開すべく一緒に考えたいよ。でも、なんでもない赤の他人の恋愛にまで口出しできるほどみなさん偉かったんでしたっけ?と常々思う。恋人同士の関係性も、家庭の内情も、外部の助けが必要な場合はもちろん残念ながらあるけれど、頼まれてもいないのにしゃしゃり出て誰かの言動を断罪するなんてどうかしていませんか。

結婚と恋愛がくっついているのはどうしてなのか。私はたまたまそのとき一番近くにいた独身の異性が今のオットなので、あんまり好き好きずっと一緒にいたい~みたいな間柄のゴールとしての結婚では決してなかった。だからといってオットのことはただの同居人くらいにしか思っていないかと聞かれればそういうわけでもない。かわいいと思っているし、親しみとか気軽さとか、なんだろうあーちょっとそれ取って~みたいなことを気を遣わずに言える相手と一緒に暮らしているというのは安心できる。でも今まで経験してきた恋愛みたいなものとは大きく距離がある。

よその人に突然名前を言ってもきょとんとされるのがオチなので便宜上オットという呼び方で彼のことを話すが、オットツマの役割は家の中では皆無。よその人(親戚も含む)と交わると、それらしい役割を演じなくてはいけないこともあるにはある。でもうちの中ではそんな必要がなく、ちょっとおっちょこちょいでキュートな彼女とか、炊事洗濯も完璧にこなして亭主を立てるきれいな奥さんとか、そういうものを求められることもなく、どんなにだめでも特に失望されることもないこの間柄は結構気に入っている。外に出れば27歳で夫婦共働きの既婚女性という役割があったり、友達や家族にさえなんとなく求められている役割がある気がして、常にその期待を少し上回るくらいのコミュニケーションができたかしら?と帰り道にひとり反省会を始めてしまう自意識過剰な私なので、何かになろうとして頑張らなくていいんだ、というのはとっても楽。だけどなんだかもの足りないのはどうしてなんだろう。

底抜けに自分そのまんまで受け入れられる状態なんてめったにあることじゃないから感謝の気持ちが大きい。でも、私はこのままでいいのだろうか。おなかもそれなりに出ているし、相変わらず肌は浅黒いし、足も太い。それでいて性格もけっこう自分勝手だし、行き当たりばったりで計画性もない。それでもいいよって言ってくれる人と暮らしていることは、私にとってこのままでいいことなのだろうか。

とこういう話をするとたいてい、欲求不満なんでしょダンナと子づくりしてるの~?とか要はそういうことを言われることも多いわけですが、性欲に答えを求めるのはあまり長期的な解決にならないような気がしていて。だってその理屈だと一生いろんな人をとっかえひっかえしていかないとならないことになる。性欲なんて気持ちと同じくらいもしかしたらそれ以上にデリケートで、そのときの気分や体調にも左右される。ずっと同じ人に同じように続いていくわけではない欲にすがるのは危険だ。

結婚とか恋愛の話のようでいて、その実はちがう問題なのかもしれない。私は私のままを受け入れてくれる相手を同じように受け入れる覚悟がないのかも。本当は、嫌だ苦しい窮屈だと思いながらも誰かに役割を押し付けられる人生の方が得意なのかも。

結果や人望や貯金残高がついてきているのかというのはともかくもそれなりに一生懸命やってきたと思う私の人生だけど、とにかくずっとどこか物足りない。このままでいいのかな、ここにいていいのかな、っていつも不安な気持ちになる。InstagramFacebookで何かを見せびらかすくらいじゃちっとも収まらない私の自意識をどうにかしてくれ。以上、最近思うことでした。