落語のこと

仕事が物理的に忙しいとか、転職先でなかなかうまく立ち振る舞えないだとか、まだ環境に慣れなくて行って帰ってくるだけで疲れるだとか、言い訳はいろいろとあるんですが、案の定とんと更新していなかったブログです。

Apple Musicって落語が非常に豊富なんですよ。つい最近知ったんですけれど。

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Apple Musicに落語がこんなにたくさん入っているなんて!落語熱が再来しています。金原亭馬生大師匠のこのジャケット(って言っていいのかな、落語の場合)の可愛さったらたまらんですよね?

それで最近は、職場が変わったばかりということもあるし、春ってはじまりの季節ですから小心者な私はわくわくする気持ちと不安な気持ちが同じくらい、いや不安の方が大きかったりして、ふいに泣きたくなったり寂しくなったりします。

私の祖父の話です。祖父は、本当はよそ様に身内の話をするときには「祖父」って書き方をすべきなんでしょうが、私は「おじいちゃん」と呼んでいたのでそう書かせてもらいますね。

おじいちゃんは、私がまだ10歳になる前にがんで亡くなった。お酒は飲まないけれど、たばこはかなり長い間愛好していた。だから、がんが分かってからも寝たきりになるまで、たばこはやめられなかった。おじいちゃんは頑固であまり愛想のない真面目一徹な人だった。高価な背広や時計を持つことも嫌がり、車も国産、食事も質素なもので充分という人だったから、おばあちゃんもたばこだけは自由にさせてあげようと思っていたそうです。

まだ私が小さかったころ、家の庭に時々やってくる猫やメジロを追いかけ回したりジョウロで水をまいて遊ぶ私を、縁側に腰かけてぷかぷかたばこを燻らせるおじいちゃんがぼーっと眺めていたその姿は、今でもはっきり覚えている。おじいちゃんは初孫の私をとても可愛がってくれたし、私もおじいちゃんが大好きだった。自転車で15分ほどのところに、遊園地と動物園が一緒になったような小さなさびれた施設があったのだけど、何度もそこへ連れて行ってくれて、その途中にあるおもちゃ屋さんで、ワニワニパニックとかそういうちょっとしたおもちゃをたまに買ってくれた。

おじいちゃんが罹患したのは副鼻腔のがんだった。当時地元には治療できるお医者さんがいなかったので、ふた月にいっぺんくらい、東京のがんセンターまで飛行機で通っていた。まだ小さかった私は、何度も一緒に飛行機に乗って東京に連れて行ってもらった。その中でも銀座(といっても覚えているのは博品館やファミリア、不二家とかそんなところ)は地元にはないものばかりの街だったし、おじいちゃんとのいろんな思い出がある。そうそう、私の人生に最大の影響を与えた「メリーポピンズ」のVHSも銀座の山野楽器で買ってもらった気がする。

ディズニーランドに行くと、おじいちゃんはカントリーベア・シアターの横のレストランでカレーを食べるのがルーティンだった。特に主張するわけではなかったが、当然のようにディズニーランドでのお昼ごはんはカレーだった。私は子どもの頃カレーが苦手で、でもそのレストランに食事はカレーしか置いていなかった。カレー以外に、当時はミッキーのイラストがパッケージにプリントされたポテトチップスがあったので、私は大人がカレーを食べる横でアンバサを飲みながらポテトチップスを食べていた。いつもは食事に厳しい祖母も、母も、おじいちゃんのリクエストだからとそんな食事を黙認してくれていた。私はその非日常がとても嬉しかったし、大人になったいまでは、ディズニーランドに行けば私も必ずその店でカレーを食べる。しかし冷静に考えれば、5歳くらいの子どもの昼食をポテトチップスで済ませてしまうくらい、普段は滅多に自己主張をしないおじいちゃんの残り時間が、もう少ししかなかったということなんだろう。振り返って考えると、幼かった自分がいかに事の重大さが分かっていなかったか、仕方がないことだけれど、やっぱり胸が苦しくなる。

そんなおじいちゃんは、その後地元での入院、ホスピスへの移動を経て、私が小学校低学年の頃に、ぎりぎり自力で歩けるくらいの状態になって家に帰ってきた。私はおじいちゃんが家に戻ってきてくれたことが単純に嬉しかった。まさか、もう手の施しようがないから、最期を自宅で迎えるための退院だったことなんてちっとも理解できていなかったから。ある日、小学校から帰ると、遠縁の親戚のおばさんが喪服を着て家の前の掃除をしていた。それを見てさすがに、子どもでも、おじいちゃんが亡くなったんだってすぐに分かった。おじいちゃんがいなくなったことがぴんとこなくて、悲しいというよりも、なんだかいつまでもぼーっとしていたことだけが記憶に残っている。

そんな、私の大好きなおじいちゃんが大好きだったものが落語。東京と地元を往復する飛行機の中では必ず機内放送の落語を聞いていた。チャンネルをおじいちゃんのそれと同じ数字に合わせて、一緒に落語を聞くのが嬉しかった。子どもながらに、言葉の意味やオチは理解できなくても、言葉のリズムがひょうきんで楽しくて、そうして自然と落語が好きになっていった。テレビで着物を着て滑稽なことを言うおじいさんたち(当然のことながら大師匠ばかり)の本当の仕事がこれだってことは、あんまり理解できていなかったけど。

落ち込んだり、悔しい思いをしたり、緊張するとき、今ではiPhoneにイヤホンを挿して落語を聴く。すると、何度も聞いたネタでもやっぱり笑えたりちょっと泣けたり、何よりおしゃべりのプロの滑らかな言葉のリズムに、ぎゅっと縮こまった心がほぐれていく。なんとなく、気持ちがふさぐ時やここが頑張りどころって時にも落語を聴いて気持ちを落ち着かせる。おじいちゃんと私は10年にも満たない間しか一緒にいられなかったけど、でもこうやって、今でもおじいちゃんからもらったものが私の中でまだ生きています。きっと、おじいちゃんは雲の上でたばこをぷかぷか、私の怠惰な生活を眉間にしわを寄せながら見ていることだと思います。あ、でも無事に成仏していればもう仏なわけだから、こんな私でもニコニコしながら見てるのかな。罰当たりな孫娘でごめんね。

 誰に宛ててということではないのですが、ふとした瞬間に思い出すおじいちゃんのこと、書き留めておきたかったのでブログにしました。