なんでもない

恋人がいる人がよその人のことを好きになって、そのお相手も気持ちを受け入れたら浮気ということになりますよね?その浮気と、結婚している人の浮気を比較すると、とかく後者の方が声高に批判されますけれど、それって一体どういうことなんでしょうか?自分の恋人や配偶者の浮気について憤るのも悲しむのも失望するのも自由だと思うし、親しい人の身がそういう事態の最中にあればもちろんその人の気持ちに寄り添いたいし現状を打開すべく一緒に考えたいよ。でも、なんでもない赤の他人の恋愛にまで口出しできるほどみなさん偉かったんでしたっけ?と常々思う。恋人同士の関係性も、家庭の内情も、外部の助けが必要な場合はもちろん残念ながらあるけれど、頼まれてもいないのにしゃしゃり出て誰かの言動を断罪するなんてどうかしていませんか。

結婚と恋愛がくっついているのはどうしてなのか。私はたまたまそのとき一番近くにいた独身の異性が今のオットなので、あんまり好き好きずっと一緒にいたい~みたいな間柄のゴールとしての結婚では決してなかった。だからといってオットのことはただの同居人くらいにしか思っていないかと聞かれればそういうわけでもない。かわいいと思っているし、親しみとか気軽さとか、なんだろうあーちょっとそれ取って~みたいなことを気を遣わずに言える相手と一緒に暮らしているというのは安心できる。でも今まで経験してきた恋愛みたいなものとは大きく距離がある。

よその人に突然名前を言ってもきょとんとされるのがオチなので便宜上オットという呼び方で彼のことを話すが、オットツマの役割は家の中では皆無。よその人(親戚も含む)と交わると、それらしい役割を演じなくてはいけないこともあるにはある。でもうちの中ではそんな必要がなく、ちょっとおっちょこちょいでキュートな彼女とか、炊事洗濯も完璧にこなして亭主を立てるきれいな奥さんとか、そういうものを求められることもなく、どんなにだめでも特に失望されることもないこの間柄は結構気に入っている。外に出れば27歳で夫婦共働きの既婚女性という役割があったり、友達や家族にさえなんとなく求められている役割がある気がして、常にその期待を少し上回るくらいのコミュニケーションができたかしら?と帰り道にひとり反省会を始めてしまう自意識過剰な私なので、何かになろうとして頑張らなくていいんだ、というのはとっても楽。だけどなんだかもの足りないのはどうしてなんだろう。

底抜けに自分そのまんまで受け入れられる状態なんてめったにあることじゃないから感謝の気持ちが大きい。でも、私はこのままでいいのだろうか。おなかもそれなりに出ているし、相変わらず肌は浅黒いし、足も太い。それでいて性格もけっこう自分勝手だし、行き当たりばったりで計画性もない。それでもいいよって言ってくれる人と暮らしていることは、私にとってこのままでいいことなのだろうか。

とこういう話をするとたいてい、欲求不満なんでしょダンナと子づくりしてるの~?とか要はそういうことを言われることも多いわけですが、性欲に答えを求めるのはあまり長期的な解決にならないような気がしていて。だってその理屈だと一生いろんな人をとっかえひっかえしていかないとならないことになる。性欲なんて気持ちと同じくらいもしかしたらそれ以上にデリケートで、そのときの気分や体調にも左右される。ずっと同じ人に同じように続いていくわけではない欲にすがるのは危険だ。

結婚とか恋愛の話のようでいて、その実はちがう問題なのかもしれない。私は私のままを受け入れてくれる相手を同じように受け入れる覚悟がないのかも。本当は、嫌だ苦しい窮屈だと思いながらも誰かに役割を押し付けられる人生の方が得意なのかも。

結果や人望や貯金残高がついてきているのかというのはともかくもそれなりに一生懸命やってきたと思う私の人生だけど、とにかくずっとどこか物足りない。このままでいいのかな、ここにいていいのかな、っていつも不安な気持ちになる。InstagramFacebookで何かを見せびらかすくらいじゃちっとも収まらない私の自意識をどうにかしてくれ。以上、最近思うことでした。

20180105

書いては消し、書いては消しでぜんぜんブログが更新できていませんでした。今年はもう少し更新できるといいなあと思います。

2017年は、ほとんど本が読めなかった。私は本で読んだことを詳細に記憶していられるタイプでもないし、時代背景の考察もできなければ伏線が鮮やかに回収される展開に興奮するタイプでもない。じゃあ、印刷された言葉を読んでどう受け入れているのか、というようなことを改めて考える。

少し前にこんなことをツイートしていて、その時からずっと、今年本が読めていないという異常事態について焦ったり悩んだりしていたのだけど、未だそれは解決する様子もない。

 幼いころから本を読む習慣があった。記憶している限り、幼稚園の頃から絵

本が大好きだった。「ぐりとぐら」シリーズ、「こぐまちゃん」シリーズ、「14ひき」シリーズ、もう本当にたくさんの絵本を母は買い与えてくれた。

とくに、記憶に残っているのは「ももいろのきりん」という児童書で、今検索してみると小学校2年生くらいが、読むには妥当な年齢だそうな。私はこの絵本がなんとなく怖かった。私にとって、読むのがつらい、悲しい気持ちになる絵本だった。

ももいろのきりん (福音館創作童話シリーズ)

ももいろのきりん (福音館創作童話シリーズ)

 

るるこという、わりと威勢のいい、というか絵本の中で見かけるにはやや乱暴な言葉づかいで、いわゆるじゃじゃ馬な女の子が、クレヨンで描いたキリカというももいろのきりんと冒険に出かけるお話で、出かけた先でいろんな動物たちとも出会い、まあともかく最後はハッピーエンドなわけです。

で、このどこに悲しさがあったんだという話なんですが、小学校2年生ともなると、絵に描いたきりんがしゃべって動くことなんてありえないことは分かってるんです。だから、それが悲しかった。るるこが描いたキリカそっくりに私が描いたももいろのきりんは、うんともすんとも動かない。だからきっとこの本に書いてあるお話はるるこの夢の中か、はたまたサツキとメイにとってのトトロのように、子どものときにだけあなたに訪れる不思議な出会いなんじゃないかと想像するわけです。するともう、力強いるるこのせりふもどこか悲しく聞こえてしまうんです。もちろん、今でさえこんなことを語られたところでうまく伝わらないかもしれませんが、当時はまったく説明ができませんでしたから、子どもの頃の自分の抱えていた得体の知れない恐怖、みたいなものを今の私が振り返ってできる限り説明してみたまでのこと。いつか彼女たちに訪れる別れ、いつか魔法が解けて元の紙に戻ってしまうキリカを、その時るるこはどう受け入れるのか、それを想像しては涙が出そうになっていた。覚えてないけど、実際には泣いていたかもしれない。

私の読書における興奮や、気持ちの高揚に関してはわりと「ももいろのきりん」が原点になっている気がする。いつか終りがくるかもしれない時間、二度と戻ってこない瞬間、そういうものをさりげなく切り取った作品が好き。日常の会話ひとつとっても、同じ日、同じ時間に同じ言葉で同じ相手と話ができるなんてことはありえないわけで。で、長い目で見れば恋人も友達も夫婦も兄弟姉妹も会社の同僚も親兄弟もいつかはみんな必ず死ぬわけですよ。そう思うと途方もなく悲しくなったりする時がある。理由も出口もない悲しみ。何もない真っ暗な世界に、物語は接続しているから怖い。でも、そんな途方もないところに突き落とされてしまうほんの一瞬手前に、体が勝手に震えるくらいの読書体験があるわけです。だから、本を読むことをやめられない。

と、ここまで書いてきて、読書への情熱がむくむくと湧き上がってきたので帰りに本屋さんに寄ってみることにします。非常に個人的で感覚的なお話にお付き合いいただきありがとうございました。

働くことを考える

ぱっと思いついたらすぐに行動するとか、自分の知識のなさ思慮の足りなさ考えの甘さをさらけ出して丸腰で誰かに助けを求めるとか、大人になればなるほど難しくなっている気がする。

それはやはり自分に対する自信のなさからくるのである。小学生、中学生、高校生、大学生のうちは「まだ何者でもないけれど、何者かになれるかもしれない」自分を根拠なく信じていたのだろうと振り返ってみて思う。

でも、大学を卒業してなんとなく会社に入り、だんだんと「はて私はこれでいいんだっけ」という不安が日ごと大きくなっていくのだ。別に、億万長者になりたいわけではない。でも結婚をした以上少なくとも今後生まれてくることがもしかしたらあるかもしれない子どもに不自由な思いをさせたくないし、またオットとの関係においても万が一この先お互いあるいはどちらかの気持ちが離れてしまった場合に、お金のことがネックになって嫌々ながら一緒に暮らしていくなんて不幸せなのでいやだ。そうやって考えると、一人で生きるのには充分それに加えて何かしら不測の事態が起こった時でもなんとか対応できるくらいのゆとりは持っていたい。だから現実の生活と天秤にかけて、夢や楽しいことを仕事にしたいという風に無邪気には発言できない。

新卒で入社した会社でも、人並み以上に楽しくまた誰かの役に立てるという仕事をしてきた実感はあった。でも、自分が本当に楽しくて幸せなことはどこかで仕事とは切り離さなくてはいけないという勝手な思い込みがあった。だから、お客さんや会社の中の上司や先輩、一緒に仕事をする人たち、そういう周囲の人たちにどれだけ自分が貢献できたかということが自分のわずかな自信になっていたように感じる。でも、今、きっかけがあって新卒からお世話になっていたところとは別の会社で仕事をし始めた私は、自分という個人の能力だったりそこから生まれる自信というもののなさに打ちのめされているのだ。

話は変わって私のオットは仕事について「自分が楽しい・面白いと思えるかどうか」を重視するタイプだ。以前からこの仕事に対する心構えみたいなものには私と夫の間に大きく違いがあった。だから、「でもさ、誰かの役に立ちたいって思えることはすごくいいことだけど、それが実現できなかったり求められていない状況にあったらきみはどうするんだろうね、すごく落ち込んだり悲しくなるんじゃないかと心配」というようなことを言われ続けてきた。正直に言って、仕事の成果としてオットも含む同世代の人たちと遜色なくやっている自信があったから、以前は「この人はなにを言ってるんだろうか、わがままやなあ」くらいにぼんやり思っていた。でもオットの言っていたことの意味が今になってやっと分かる。

私はこれまで身の回りの関係者という意味ではものすごく恵まれていて、関わるみんなが楽しく仕事をしようとか、何かしてもらったことへの恩義はきちんと返そうとか、そういう当たり前のことを大事にする人たちが多かった。もちろん、人数にすればそれと同じくらいに意地悪だったり約束を守らなかったり嘘をついたりずるい人はたしかにいたし傷つけられることも多かったですよ。でもイメージ的には自分から近い円の中にはほとんど前者の人たちがいて、その外側から後者の人たちが攻撃をしかけてくるようなそんな塩梅だった。それはとても守られた状況だったのだなあ。人に嘘をつかないようにするとか、ずるをしないとか、せめて自分の好きなこと・人に対しては自分の持っているものを死なない程度に注ぎこみたいとか、そういう私の小さなこだわりを周囲の人が尊重してくれていたのだ。

 私はいつでもまっすぐで正直できちんとしていて、誰にどう見られても正しい人間では決してない。でも、自分が好きなことや人に対してはずるしたくないし、嘘もつきたくない。私に対して心を通わせようとしてくれる相手に対して、できる限りの対応をしたい。それは絶対にこれからも変わらないことだし、変わりたくない。

じゃあ、好きなことってなんだと言われたら、やっぱり言葉で表現することや表現されたものを読むことだ。私の場合は日本語しかほとんど読み書きできないので言葉といっても日本語のみということになるが。思い返してみれば、小さいころから変わらず続けているのは読書だけだ。映画や、美術館に行くことや、音楽を聴くことも好きだ。夜お布団に入って、このまま眠ったらどうか起きることがありませんようにとお祈りすることは子どもの頃から一度や二度ではなかったし、今でもたまにあるけれど、これまでこの世で生きていた・いる誰かが信じられないような熱量で生み出した作品たちにずいぶんと助けられた。

あとは、いろんな人が関わりあって、ひとつの物事をつくりあげていく過程も好き。そういうことが、仕事の中でいま現在は不足していて心がるんるんしないんだよな。前の会社と同じ業界ではあるが、これまで自分が習得してきたものとは違う能力を求められるし、仕事のやり方も違う。今はまだ、自分の知識とか経験や度胸が足りていなくて面白味を見つけるに至っていない。

今までは、仕事は好きなことから少し離れててもいいと思っていた。今も思っている。それはやっぱり先に書いたように生活つまりはお金が関係するからだ。でも、結婚をして、今はまったく考えてもいないけれど、もしかしたらこの先子ども持つかもしれないということもひとつ想像してみたら、私は自分の仕事そのものを楽しんでいられるだろうかと不安になる。べつに楽しんでいなくてもいい、心身健康に毎日過ごすことを続けていけるのだろうか。独身なら、夫婦だけなら、よほどの事情がない限りは自分の稼いだお金は自分のために使える。貯金とか保険とか、すぐ目の前に現れるなにかではないものの場合もあるが、1万円を切るくらいのものならそんなに悩まなくても買える。ささやかではあるものの、給料日の焼肉だとか、ミッフィーの限定フィギュアを買うとか、本屋で好きなだけ漫画や小説を買うとか、気心の知れた人とゆっくりお酒を飲むとか、そんなことができれば私のストレスはそれなりに解消できていた。仕事で感じたちょっとした、本当に些細なことの積み重ねで心身疲労していても、週末のあれこれでそれなりにやり過ごせる。では、子どもができた場合にそのままでいられるだろうか。家族や友人と過ごす時間をときどき犠牲にすることもある仕事というものを、子どもが生まれたり親の介護やなんかで今以上の制限が発生したときに、やっていくことができるのだろうか。

ともあれ私は今あまり仕事でうまくいってないという現状があって、でもそれは自分の仕事に対する考え方とか、これから先の選択肢をどう作っていくのかということを考えるきっかけになっていて、でもそれって実はすごく苦しい。これまで命を懸けるほどではないが、目先の睡眠や健康とかオットや友人との時間なんかの優先順位を下げることはするくらいの覚悟で向き合ってきたこれまでの仕事や、それによってほんのわずかに積み上げることができた自信が、ちょっとしたことでがしゃんとなぎ倒されてしまう瞬間もある。だから、いつかもう少し何年か先の私がこれを見て「あの頃は大変やったけどまあなんとかなったよ」とおせんべかじりながらだらした感想を述べられるようにしたいものです。だから、また今までとは違う積み木を見つけていかにゃという気持ち。これは個人的かつまだまだ弱弱しい決意表明ではあるけれど。

落語のこと

仕事が物理的に忙しいとか、転職先でなかなかうまく立ち振る舞えないだとか、まだ環境に慣れなくて行って帰ってくるだけで疲れるだとか、言い訳はいろいろとあるんですが、案の定とんと更新していなかったブログです。

Apple Musicって落語が非常に豊富なんですよ。つい最近知ったんですけれど。

https://www.instagram.com/p/BSi6YlwhNVN/

Apple Musicに落語がこんなにたくさん入っているなんて!落語熱が再来しています。金原亭馬生大師匠のこのジャケット(って言っていいのかな、落語の場合)の可愛さったらたまらんですよね?

それで最近は、職場が変わったばかりということもあるし、春ってはじまりの季節ですから小心者な私はわくわくする気持ちと不安な気持ちが同じくらい、いや不安の方が大きかったりして、ふいに泣きたくなったり寂しくなったりします。

私の祖父の話です。祖父は、本当はよそ様に身内の話をするときには「祖父」って書き方をすべきなんでしょうが、私は「おじいちゃん」と呼んでいたのでそう書かせてもらいますね。

おじいちゃんは、私がまだ10歳になる前にがんで亡くなった。お酒は飲まないけれど、たばこはかなり長い間愛好していた。だから、がんが分かってからも寝たきりになるまで、たばこはやめられなかった。おじいちゃんは頑固であまり愛想のない真面目一徹な人だった。高価な背広や時計を持つことも嫌がり、車も国産、食事も質素なもので充分という人だったから、おばあちゃんもたばこだけは自由にさせてあげようと思っていたそうです。

まだ私が小さかったころ、家の庭に時々やってくる猫やメジロを追いかけ回したりジョウロで水をまいて遊ぶ私を、縁側に腰かけてぷかぷかたばこを燻らせるおじいちゃんがぼーっと眺めていたその姿は、今でもはっきり覚えている。おじいちゃんは初孫の私をとても可愛がってくれたし、私もおじいちゃんが大好きだった。自転車で15分ほどのところに、遊園地と動物園が一緒になったような小さなさびれた施設があったのだけど、何度もそこへ連れて行ってくれて、その途中にあるおもちゃ屋さんで、ワニワニパニックとかそういうちょっとしたおもちゃをたまに買ってくれた。

おじいちゃんが罹患したのは副鼻腔のがんだった。当時地元には治療できるお医者さんがいなかったので、ふた月にいっぺんくらい、東京のがんセンターまで飛行機で通っていた。まだ小さかった私は、何度も一緒に飛行機に乗って東京に連れて行ってもらった。その中でも銀座(といっても覚えているのは博品館やファミリア、不二家とかそんなところ)は地元にはないものばかりの街だったし、おじいちゃんとのいろんな思い出がある。そうそう、私の人生に最大の影響を与えた「メリーポピンズ」のVHSも銀座の山野楽器で買ってもらった気がする。

ディズニーランドに行くと、おじいちゃんはカントリーベア・シアターの横のレストランでカレーを食べるのがルーティンだった。特に主張するわけではなかったが、当然のようにディズニーランドでのお昼ごはんはカレーだった。私は子どもの頃カレーが苦手で、でもそのレストランに食事はカレーしか置いていなかった。カレー以外に、当時はミッキーのイラストがパッケージにプリントされたポテトチップスがあったので、私は大人がカレーを食べる横でアンバサを飲みながらポテトチップスを食べていた。いつもは食事に厳しい祖母も、母も、おじいちゃんのリクエストだからとそんな食事を黙認してくれていた。私はその非日常がとても嬉しかったし、大人になったいまでは、ディズニーランドに行けば私も必ずその店でカレーを食べる。しかし冷静に考えれば、5歳くらいの子どもの昼食をポテトチップスで済ませてしまうくらい、普段は滅多に自己主張をしないおじいちゃんの残り時間が、もう少ししかなかったということなんだろう。振り返って考えると、幼かった自分がいかに事の重大さが分かっていなかったか、仕方がないことだけれど、やっぱり胸が苦しくなる。

そんなおじいちゃんは、その後地元での入院、ホスピスへの移動を経て、私が小学校低学年の頃に、ぎりぎり自力で歩けるくらいの状態になって家に帰ってきた。私はおじいちゃんが家に戻ってきてくれたことが単純に嬉しかった。まさか、もう手の施しようがないから、最期を自宅で迎えるための退院だったことなんてちっとも理解できていなかったから。ある日、小学校から帰ると、遠縁の親戚のおばさんが喪服を着て家の前の掃除をしていた。それを見てさすがに、子どもでも、おじいちゃんが亡くなったんだってすぐに分かった。おじいちゃんがいなくなったことがぴんとこなくて、悲しいというよりも、なんだかいつまでもぼーっとしていたことだけが記憶に残っている。

そんな、私の大好きなおじいちゃんが大好きだったものが落語。東京と地元を往復する飛行機の中では必ず機内放送の落語を聞いていた。チャンネルをおじいちゃんのそれと同じ数字に合わせて、一緒に落語を聞くのが嬉しかった。子どもながらに、言葉の意味やオチは理解できなくても、言葉のリズムがひょうきんで楽しくて、そうして自然と落語が好きになっていった。テレビで着物を着て滑稽なことを言うおじいさんたち(当然のことながら大師匠ばかり)の本当の仕事がこれだってことは、あんまり理解できていなかったけど。

落ち込んだり、悔しい思いをしたり、緊張するとき、今ではiPhoneにイヤホンを挿して落語を聴く。すると、何度も聞いたネタでもやっぱり笑えたりちょっと泣けたり、何よりおしゃべりのプロの滑らかな言葉のリズムに、ぎゅっと縮こまった心がほぐれていく。なんとなく、気持ちがふさぐ時やここが頑張りどころって時にも落語を聴いて気持ちを落ち着かせる。おじいちゃんと私は10年にも満たない間しか一緒にいられなかったけど、でもこうやって、今でもおじいちゃんからもらったものが私の中でまだ生きています。きっと、おじいちゃんは雲の上でたばこをぷかぷか、私の怠惰な生活を眉間にしわを寄せながら見ていることだと思います。あ、でも無事に成仏していればもう仏なわけだから、こんな私でもニコニコしながら見てるのかな。罰当たりな孫娘でごめんね。

 誰に宛ててということではないのですが、ふとした瞬間に思い出すおじいちゃんのこと、書き留めておきたかったのでブログにしました。

情けない人たち

  • 「普通の家族」フィリピン/2016/107分/監督:エドゥアルド・ロイ・Jr

『普通の家族』 | 第17回「東京フィルメックス」

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私たちは生活の中で正直な気持ちを隠して生きている。誰かれに自分が思ったことをそのままぺらぺら話す人なんていない。大人になればどんどんそれが加速する。でもそれが人間っぽさでもあるんじゃないだろうか。

誤解を恐れずにいえば、この作品に登場する人々はみんなものすごく動物っぽい。自分の子ども、それもまだ生後1か月にも満たない赤ん坊がさらわれたら、私だったらその数日後にセックスなんて、とてもじゃないけどできないよ!

 

親切なふりをして近づいてきたゲイに騙され、子供をさらわれたジーンとアリエスのふたりはそれぞれ16歳と17歳。フィリピンの街中で暮らすいわゆるストリートチルドレンだ。子どもを取り戻すために二人はあらゆる手をつくして探そうとするが、その弱みにつけこんで、様々な立場の「大人」があの手この手で彼らをひどい目に遭わせてくる。でもただただやられっぱなしの二人ではない。観光で訪れた外国人や、富裕層の学生グループにスリを働き、万引きは当たり前。私の感覚では到底理解のできない言動が、まるで「当たり前」のように人々の中に根付いているのだ。そんな調子なので、冷静に考えればむごい仕打ちを受けている二人なのだが、家(といってもビルの軒下)に帰れば大声でののしり合い、セックスもする。ただただかわいそうにはとても思えないのだった。みんなそれぞれに悪いことやひどいことをしていて、みんな途方もなく情けない。お金を持つ者、立場を持つ者、それらを持たない者、それぞれにみんな生きるだけで精いっぱいなんだもの。

 

フィリピンの街は、東京のそれと比べて、汚くて湿気が多くて明らかに不潔だ。でも彼らは、生きている実感を、東京に生きる人々、少なくとも私なんかよりもよっぽど感じているように見えた。周りを気にしないでわめき散らすほどの感情の爆発や、きれいごとだけではなく、どんな手を使ってでも守りたいと思えるものって私の人生にはきちんと存在しているのだろうか。ふと帰り道に思った。情けない人生を、もっと自分の体でしっかり感じながら過ごしてみよう。

私を支えるあれこれ

初回からずいぶんと日が経ってしまったが、今日は化粧品のことを書いてみたい。親しい、また信頼のおける友人であるid:necomimii氏のブログに触発されていることは言うまでもなく。

 

さて、私は子どものころから軽度のアトピー・アレルギーに悩まされ、夏は自分の汗でかぶれ、冬はひどい乾燥に肌を破壊され、全身しかもオールシーズン、生傷の絶えないわがままスキンの持ち主である。そこへきて顔の状態は相変わらずの乾燥肌をそのままに、加齢のせいだろうか、鼻や顎のまわりはしっかりとテカテカするようになってしまった。

潔癖で匂いに敏感、余計なものを極端に嫌う母親に育てられたため、「スキンケア」の概念は大学を卒業するまで洗顔・メイク落としの域を出ることはなかったが、大学卒業そして就職を機に、どうも下地・ファンデーション以前の素肌の戦闘力が周囲と比べて今ひとつだなということが気になり始め「基礎化粧品」の世界に足を踏み入れた。

 

クリニーク

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3ステップ スターターズ セット (スキンタイプ2用 クラリファイング ローション)(2016.8) | クリニーク公式 オンラインショップ

当時、たしか大学の先輩(とても肌がきれいな人)がInstagramでスターターキットの写真をシェアしていたのがきっかけだったような。

思い立ってとび込んだ池袋西武でそれなりに大きな売り場面積を誇るクリニークの、無駄な装飾や媚のないパッケージ、また無香料でスキンケアの工程も非常にシンプル、という点で初心者に優しかった。ついでに価格もそれなりにこなれていて、手が出しやすかった。

化粧品というものは合う/合わないが個人によって大きく分かれるというのは私が言うまでもないことだが、一応上記のものに行きつくまでは多少いろいろなメーカーのものをサンプルやミニボトルで試すことはあったのだが、私の場合は当時クリニークほど使った直後に結果が出るものは他にはなかった。

ちなみに先のキットに入っているもの以外で色々なものを試した結果、とくに乾燥肌の方にはおすすめしたいのが、以下ふたつ。

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モイスチャー サージ フェース スプレー | クリニーク公式 オンラインショップ

お化粧の上から吹きかけられるので、夏も冬も乾燥の激しい会社の中で大活躍。

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モイスチャー サージ オーバーナイト マスク | クリニーク公式 オンラインショップ

洗い流さないタイプ、塗ったらそのまま放置の楽ちんマスク。眉間や口の周りのカサつきを一晩でどうにかしてくれるので、とても優秀。

 しかしながら人間、とくにおんなという生き物?、は欲が深いもので、それなりにつるんとした素肌を手に入れた暁にはさらにアラをなくしたいと思うのが当然の流れである。クリニークの1万円以上する美容液なんかも使ってみたりはしていたものの、やはり諭吉さん1枚以上となるといくら効果があってもリピートがしづらくどうしたものかなーと思うもコレというものに出会えないまま、肌の悩みは乾燥に加えくすみなんかも気になるようなお年頃になりました。

 

キール

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キールズ DS マイクロピール コンセントレート - キールズ公式通販サイト

上記、クリニークのふき取り化粧水はとても優秀なので継続しているが、この美容液を通常のケアにプラスオンして使用しています。

くすみを消したい、というのがそもそもこの美容液に託した願いだったが、思いがけず、中学生くらいから気にはなりつつも取れる気配もないので添い遂げる覚悟をしていた、目の周りの白いぶつぶつが少しずつ取れていったというのが強烈な驚きだった。もうこれは手放せないぞ。

参考:稗粒腫とはどんな病気か|症状や原因・治療 - gooヘルスケア

 

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キールズ スキンチャージ マスク - キールズ公式通販サイト

これはサンプルで何度か使っただけですが、ここぞ!という時、デートや大事な商談の当日なんかに一気に素肌を明るくしてくれるアイテムとして重宝しそう。使用後に赤みが出るほどではなかったが、私の肌は使用中少しピリピリしたので、気になる方は事前にパッチテストをおすすめします。効果はてきめん。

 

そのほか

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クレンジングウォーター<ウォータータイプ> | スキンケア一覧 | 自由が丘クリニックドクターズコスメティクス JCprogram

洗顔については「洗いすぎは良くない」という都市伝説を盲信しているため、母親から勧められたクレンジングと洗顔を同時にできるというこちらを使用。

https://cloudinary-a.akamaihd.net/lushjapan/image/upload/c_fit,h_300,w_300/v1/prod/products/secondary/2015/04/hua_li_naruxiang_yan_60g.png

華麗なる饗宴 / フレッシュフェイスマスク | Lush Fresh Handmade Cosmetics | 自然派化粧品・石鹸をお探しなら - ラッシュ

あまりゴシゴシ洗顔をしないので、少し汚れが溜まってきたなぁ顔が疲れているなぁという感じがしたら、LUSHのマスクで喝を入れている。ちなみにこのマスクは肌の悩みによって種類がたくさんあるが、いずれも本当に防腐剤フリーで腐りやすい。LUSHのおねえさんの言いつけを守らずにお風呂場に放置し、カビを育てたことのある私が言うのだから間違いない。絶対に冷蔵庫に入れよう。

 

以上、思いつくままに化粧品、とくにスキンケアについて書きつらねてみました。私の顔立ち・顔色だと使える色も限られてしまうということもあり、大人になればなるほどスキンケアが面白い。ベースメイクやアイメイク、その他についてはまた別の記事に書いてみようと思います。

近頃私はすこしラッキーな気がする

いいことがあると、それもいくつかのいいことが続くと、次は悪いことが起こるのではないかと心配になる。それは子どものころから何かあると悪い方に考える癖がついてしまっているせいなのか、ひとつの自己防衛のようなものだと自分なりには思う。

それでも、いいことあったので、せっかくなら何かを始めてみようと思いたち、しばらくの間更新をしていなかったブログを再び始めてみることにしました。

私は性別でいうと女、東京でサラリーマンをしています。物心ついたころから本を読んだり音楽を聴くことが好きです。かわいいものに目がないので、家の中はつねに散らかっている。つい最近のこと、結婚をして、いくつか年上のオットと二人で共働きの暮らしをしています。

本や映画、ヤクルトスワローズのこと、かわいいと思ったこと・もの、楽しかったこと面白いこと、気になったこと、できる限り前向きなことを中心にいろんなことをゆっくり書いていくつもりです。